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「この世界の片隅に」を観て

 

 

あの日。

 

 

砂塵が舞っていた。

 

巻き上げられた埃が、空に模様を描いていた。

 

目の前に広がっていたのは、

 

変わり果てた故郷のすがただった— 。

 

 

それはまるで

教科書の中で観た原爆の跡のようだった

 

最初に思ったのはそれだった。

 

 

 

あちこちに

 

 

誰かの家の布団や

 

誰かの思い出を録ったビデオテープや

 

テレビや

 

スカーフ

 

お茶碗

 

おはし

 

スプーンが

 

転がっていた。

 

 

辺り一面に 家があったはずなのに。

 

もう

 

何も無かった。

 

 

 

あれは2011年の4月8日だった。

 

家を流され、私の家に身を寄せた祖父母達。

ようやく避難場所が決まりその場所である鳴子温泉へ車で送り届けるべく、私たちは東北へ向かった。

 

東北は私の生まれ故郷である。

その町で、私たちは生まれ、そして夏の度に帰って来た。

 

その町はみんなの居場所だった。

 

 

本当に田舎で、昭和の頃の建物も多く、ゆっくりと時間の流れるひなびても美しい町だった。

 

 

だから予想だに出来なかった。

あんなふうになるなんて。

 

 

 

「この世界の片隅に」を観て、

私はふっと思い出した。

 

あの時のこと。

 

あの時も同じように笑ったり、喋ったり、泣いたり、したんだ。

 

 

 

たくさん、いろんなものを見た。

 

死んでしまった人の名前が、資料館の扉の前に貼ってあった。

行方不明になった家族を捜す人が、体育館や避難場所で食い入るように名簿を見ていた。

瓦礫になってしまった家屋に「OK」と書かれていた(捜索隊の人がご遺体などがないか捜索したのち、捜索済みのところにOKと記すのです)。

いつも通っている家にいた3歳の女の子が流されて亡くなってしまった。

 

たくさん、いろんな話も聞いた。

 

いろいろありすぎて、耐えきれずに辛い思いをしたことは

たくさん たくさん あった。

 

でも、生きているということは

 

悪いことだけではない。

 

 

それは確かなのだということが

わかった。

 

 

あの状況の中で

確かに私たちは

 

笑っていた。

 

ご飯を囲んで、話をして。

 

慰めたり。

 

心が通じ合ったり していた。

 

 

それは 何事もなく暮らしていたら味わえなかったような

 

濃い 生の 「生きた時」だった。

 

 

同じなのだ。

 

映画の中の時間の流れ方と。

今のわたしたち。

 

 

あの映画は「昔」を描きながら、でも「今」も描いている。

 

私にはそう見える。

 

 

人が生きるということはいつだって同じなのだ。

 

 

あれから「何年」だとか

 

そんなことは関係ない。

 

失われたものは元には戻らない。

 

 

でも

 

今は。

 

私はこう思う。

 

 

私は1000年に一度の 得難い体験をしたのだ。

 

世界は私の大切なものを奪っていた。

けれど その世界の中に大切なものが全部ある。

 

海の中に 後を追いたくなるくらい愛した町が 全部ある。

大好きなものを内包する世界を 愛している。

 

 

だからもう泣かない。

 

 

そして私にはまだ右手があるのだから

 

物語を

 

この世界に出て来るのを待っている物語を描き続けなきゃと

 

私は思った。

 

 

2016片隅に

 

(あの日の写真だけはずっと 印刷することが出来ませんでした。

でも、残さなければなりません。

 

あの日のことを 知る人間として。)

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